愛とは共苦である
読書が好きな私はある本の一節に引き込まれていった。
「愛とは共苦である」
「共感」という言葉が常日頃から、存在し、また常識的にも必要とされている社会の中、「共感」を出来る人がこの世に多くいるのだろうか。
「お互いの気持ちを考え、お互いの気持ちになること」は可能なのだろうか。
私は人に相談を乗ってもらうことが億劫になることがある。
それはその時に人がしてくれている「共感」が「共感」ではないからである。
「最近、こんなことがあって、本当に困ったんだよね。」と
愚痴や何かしらの言葉を吐きたくなる時がある。
その時に、
「あぁ!私もね/俺もね、こんなことがあって、それと同じこと昔にあったよ。しんどいよね。」
と言われることがある。
私の心がねじ曲がっているかどうかはわからないが、相手のその言葉は、「共感」ではなく、「ただの相応する例を挙げている」または「私の話した出来事に対する皮肉」に類する物だと思う。
最終的には自分次第の話にはなる。しかし、相手の思う「共感」は「共感」と感じられないことの方が多い気がする。
さて、私が読んだ本に書いていた言葉、
「愛とは共苦である」は、
「その人に対して愛する気持ちがあるのであれば、相手と共に苦しいことがあろうとも拒まない。」という意味で私の頭は解釈した。
結婚式を挙げる時もそうであるが、「いかなる時も...」的なことを誓う。
それは確かに素晴らしい誓いである。
しかし、常日頃から、考え行動に移せている人はこの世にどれほどいるのだろうか。
人のために「共感」ではなく、「共苦」できる人になりたいものである。